9月日記
●タカノハススキ
庭にタカノハススキが咲いている。株が毎年、増える。ススキの葉が、かすりの生地に横縞模様がついている。
ITで調べると、「欧米のグラスガーデンでも大人気の斑(ふ)入りススキです。グリーンにクリームイエローの千代紙を思わせる古典的で美しい矢羽模様が入ります。」という説明がありました。
【朝日を浴びるタカノハススキ】
【目次】
9月1日〜8日:航海日記
9月9日(日)「日本一周探訪の旅」感想
9月10日(月)日本一周探訪の旅(航海日記)前編
9月11日(火)日本一周探訪の旅(航海日記)後編
9月12日(水)腹が立つこと
9月13日(木)ええ格好できない?
9月14日(金)介助犬
9月15日(土)オセアニア大航海展
9月16日(日)世界の水問題
9月17日(月)いよいよ老人1年生
9月18日(火)茶番劇
9月19日(水)分別収集
9月20日(木)料金箱
9月21日(金)糖尿予備軍の同窓会
9月22日(土)めんどうな草むしり
9月23日(日)のどか村
9月24日(月)けもの道を行く
9月25日(火)地球一周船旅の説明会
9月26日(水)彼岸花を観る
9月27日(木)京都で会合
9月28日(金)浄瑠璃寺
9月29日(土)コンパクトカメラ
9月30日(日)D3&D300発表会
次の戦争原因は「水」
コウノトリ―をTVで見た方も多いだろう。今年の5月、兵庫県・豊岡市で放鳥したコウノトリが雛を誕生、育てているニュースが流されたからだ。かつては全国にいたコウノトリは都市化の進展、山林伐採、農薬使用で絶滅。過疎化が進むなかで同市は長年にわたりコウノトリの野生化に取り組んできたことが、43年ぶりの快挙となった。
これには水が深く関わっている。水は農業、工業、生活用水に大別されるが、農業用水の比率が高い。近年、田んぼでドジョウやカエルを見なくなったが、それは農薬の影響である。このため、コウノトリのエサがなくなり絶滅した。同市はこれを逆転させてドジョウやカエルが住める田んぼづくりから取り組んだ。当然、収穫量は減り、農家は反対する。
同市は環境経済戦略を進め、農薬を使わない農家の支援に乗り出した。やがてコウノトリを育む農法が普及、減農薬、無農薬米が脚光を浴び、高付加価値の米として消費者に歓迎されている。太陽電池を生産する大手企業はコウノトリのマークをつけてヨーロッパに輸出、環境に優しい商品として人気を集めている。
前置きが長くなったが、いま水問題が石油以上に深刻になっている。コウノトリ以上に人間が安全な水を利用できなくなっている。しかもその9割がアジア・アフリカに集中している。急速な工業化の発展で水汚染が進み、開発途上国の95%が下水処理施設をもたず、垂れ流している。それは貧困国、貧困層に集中、乳幼児の死亡数は年間340万人にものぼる。
先ごろ国連人口基金の「アジアの水が危ない」というテーマで市民セミナーが開かれ、バングラディシュ、パキスタン、フィリッピン、中国など9カ国の大都市自治体の水管理職員が集まってプレゼンを行った。聴衆の中学生が「日本の水道水のように、がぶ飲みできる国はありますか」と質問した。出席した国の担当者は「No」と答えた。
山紫水明とは、日本にかろうじて通用する言葉であろう。中国の揚子江を船で上った時、あまりの濁流に日本の河川の美しさを思い出したことがあった。その日本の河川も農業、工業及び生活排水で汚れ、衛生処理上、塩素使用量が増え、がん発生物質のトリハロメタンが増加、がぶ飲みできる状態ではなくなってきた。
かつて『ユダヤ人と日本人』(イザヤ・ベンダサン著)で日本人は水と安全はタダだと思っていると指摘されたことがある。そのころペットボトルの水が売られるとは想像もできなかった。いまでは輸入の水が増えているという。安全についても、かつての日本ではカギを掛け忘れてもドロボウに入られないと、日本人はその安全性を誇りにしていた。いまではすっかり様変わり、セキュリティが大きな関心事になっている。セコムのラベルが増える一方である。
世界人口65億人の2割、13億人しか安全な飲み水か利用できていない。しかも穀物総生産量22億tのうち、10億人が11億tを食べ、55億人が残り半分の11億tを食べているにすぎない。水不足は食糧生産にも悪影響を与えている。日本の食糧自給率は40%を割る状態である。食糧の輸入が増えれば、それだけ日本人が海外の農業用水を享受していることになる。穀物はもとより、加工食品も多量の水を使っている。それは開発途上国の人々の水不足に拍車をかけることになる。
昔から水利権をめぐっての争い、あるいは戦争になったことがある。世界銀行のイスマエル・セラゲルティン副総裁が1995年の記者会見で「20世紀は石油争奪で戦争が勃発したが、21世紀には水獲得問題が原因となって戦争が起こる可能性が高い」と、発言したことが世界中を駆け巡った。
日本にいると、まさかと思うが、いま河川の汚染、地下水の減量、砂漠の拡大など深刻である。「五輪の湖が消えた」(朝日新聞5月9日付)という見出しでかつてメルボルン五輪のボート競技が行われた湖が干しあがってしまった写真は衝撃を与えた。日本の下水処理も雨水と汚水に分けられ一層、きめ細かく対策が行われているが、味噌汁1杯の汚水処理にその数十倍の水が使われるのだから、日本人は一層、生活レベルでも水を意識すべきであろう。
4時半、起床。朝日は雲に隠れ撮れなかった。6時にアーリーモーニングのティーを飲む。6時30分、8階デッキの周囲約150mほどをウォーキング。7時からストレッチ体操、第1、第2体操を20分。その後、洗濯機に洗濯物を投げ入れて、朝食。
9時から映画「きみに読む物語」を観ている間、10時半に金沢に入港。この映画は以前に観ていたが、途中までそのことに気付かなかった。映画は認知症の物語である。ここ金沢で降りる人、逆に乗る人たちがいる。この場合、3泊4日の旅行となる。現役だとこの程度しか休みが取れないので仕方ないのだろう。降りる人に比べて乗る人の方が多いようだ。約100人が乗船。
午後からは夜の盆踊り大会に向けて教室が開かれた。私は写真の整理、パワーポイントの作成で時間を費やした。夕方、ミニジャズコンサートを聴く。狭い会場は立つほどにいっぱいである。この日から夕食は2回制となり、私は7時30分からの2回目の組である。
乗船して初めてT会長夫妻と同じテーブルで会食、決められた食事時間いっぱい話し込んだ。
「私のようなタイプ人間は船旅で時間を潰すのが苦痛です」と、話しておられた。確かに、かなりの社交性があるか、なにか趣味がないと船旅は退屈な時間の旅になる。
夜、9時からは盆踊りである。ゲームのあと、櫓の周りを輪になって、東京音頭、炭坑節、及び函館いか音頭を参加者の多くが踊り興じた。浴衣持参の人も多く、華やいだひと時であった。美人の外国人スタッフとツショットに収められたのが収穫であった。
●9月6日(木)福江観光(晴時々曇り)台風9号が太平洋側を北上しているとき、ヴィーナス号は日本海を五島列島に向かって南下、大波に見舞われずにすんだ。毎朝の体操、朝食、そして午前中は、キャプテントークということで、船長の講演があった。自ら話がへただというだけあって、面白くなかった。ただ、船長になり立てで、45歳の若さには驚いた。
福江では五島高校ブラスバンドによる歓迎、歓送演奏が行われた。この後、下船、福江観光に出かけた。旅も終わりに近づいた。バスガイドが抜群にうまかった。
午後、鬼岳(おんたけ)、鎧瀬溶岩海岸、堂崎天主堂をバスで巡った。この五島に4つの高校があることに驚いた。鬼岳から見る西海国立公園の海はすばらしかった。
● 9月7日(金)屋久島屋久島トレッキングの日である。朝9時にバンに集合。驚いたことに女性Kさんと二人だけの参加である。羽曳野市に住んでいて、周辺の山を専門家のガイドでよく登っているそうだ。この日のガイドは太田五雄という屋久島でこの人を知らないともぐりだと言われる人だった。
新日鉄に勤務していたが57歳のとき、脱サラ、ライフワークで取り組んでいた屋久島のしごとをはじめ、世界の山に出かけている。写真集、山の本、屋久島の本も執筆している。屋久島の地図がなかったころから研究、自分でつくった地図が昭文社から出ているという。
白谷雲水峡から原生林を歩いた。楠川歩道、七本杉など7kmの道のり。縄文杉へはこの3倍の道のりだという。屋久島を歩いた人でこれまで雨に会わなかった人を知らない。365日、雨が降ると聞いていた。それが快晴に近い天候だった。川のせせらぎを聞きながら食べた弁当は格別に美味しかった。
結局、屋久島の魅力はなんだと、自問したが、それは「苔むす古木の山であること。野生のサル、鹿も見ることができ、植物の種類が多い」ことだった。屋久杉の下は子木が育たないので、数多くの苔が岩から木まで覆っている。この風景が屋久島である。もののけ姫のモデル風景になったところでもあり、幻想的である。
今回、デジカメで撮ったと思っていたカメラにメモリが入っておらず、一眼レフで撮ったリバーサルフィルムだけというお粗末なこともあった。
夜は津軽三味線を楽しんだあと、T夫妻と最後の夜を歓談して過ごした。
●9月8日(土)旅を終えて最後の日である。屋久島を午後4時に出港、翌日午後3時に神戸港に着く。
今回の船旅でいろいろ学習できた。とくに酔い止めの薬を飲むタイミングなど、今後に役立つこともあった。
世界遺産に選ばれるためには、政府は供託金が必要で、地元自治体は一切、負担はない。選定されると、いわば観光産業の振興となるが、その良し悪しは議論のあるところである。屋久島は世界遺産前は、せいぜい年間3万人だったが、いまはその10倍に膨れている。もう後戻りはできないほど、経済に組み込まれている。日本はこの条約を批准したのは世界で最後の方で、経済に関係ないところでの鈍感さを痛感する。文化や環境、景観保護についてはまさに後進国である。(終わり)
午後2時、自宅を出る。三宮でポートライナーに乗り換え、ポートターミナル駅で手荷物を預け、三宮に戻る。元町まで散策、夕方の中華街を撮る。広東料理「民生」で食事をして三宮まで戻り、再びポートターミナル駅へ行く。「民生」は開店前から人が待っていたのと、かなり繁盛していると判断して入ったが、間違いがなかった。
乗船受付は午後9時。前泊組みが乗り込む。とくに持ち込み検査はない。旅なれた人が多いことが、会話から分かる。今回の客船Pacific Venus号は26,518tで、これを利用して世界中を旅をしている人も多いようだ。
この日、釜山から午後5時に神戸港に入港した。建造が1998年(IHI製造)だから比較的、新しい。船内も結構、清潔に維持されていた。
船内でパソコンは使えた。ただ、宅急便で送った荷物が部屋に届いたのは11時過ぎ、それも自分で探して催促してようやく運ばれた。展望風呂が24時までオープン、船の中を考えれば、まずまずの広さである。
● 8月31日(金)出港
朝6時起床、朝食は7時から。ビジネスホテル並み以上の内容であった。同じテーブルに
一人旅の女性二人が同席した。話を聞いていると、東京から来たという70歳に見える女性は何回も乗っているという。もう一人は横浜から来たという。船旅も慣れると楽しいそうだ。晩年を楽しんでいる。あとで分かったが、全国から集まっている。
朝9時に当日組が乗り込む。10時出港に合わせて、神戸市消防音楽隊が歓送演奏して見送ってくれる。船が岸壁を離れると、船からテープを投げて(船側のサービス)見送りの人たちと別れを告げるのだが、このテープが対岸になかなか届かない。船旅もなかなかいいものだと思う。
続いて、ホールでオリエンテーション&避難訓練があった。実際に指定された救命艇のところまで、部屋から救命胴衣をつけて集まるのである。それが終わると、11時半からの昼食である。
進行方向に向けて右舷側のテーブルに座った。まだ淡路島がすぐそばに見える。紀淡海峡を経て、一路北進。船はほとんど揺れを感じない。
卓球で1時間ほど汗を流し、ジャグジーに浸かった。青空の下、人はほとんどいない。シニアが多いので、こういうものはあまり利用しないのか、それとも水着を着用しないとダメなので持参していないのかと思ったりした。そのフロアーに展望風呂があるので、ちょうどいいのである。
夕日を撮った。曇りで写真にはならない。
夕食、量が多い。多くの女性はドレスアップしていた。全体に華やいだ感じである。これが女性にとって最大の楽しみだろう。
食後、腹話術師・いっこく堂のショウを見た。名前も知らなかったが、吉本よりよほど品があって、芸もたいしたものである。最近、出したCDは子どもたちをはじめ、みんなを元気づけるもので、自分で作詞したそうだ。
●9月1日(土)船酔い(荒天)
朝、6時起床。8階のデッキの周りをウオーキング。風が強い。カメラをかついで歩く。80歳になる夫人と歩きながら話した。
「お元気ですね。よく船に乗られるのですか」
「もう、何回も乗っています。日本にクルーザがなかったときは、外国船に乗っていました」「エリザベス号も?」
「はい、日本近海ですが・・。この前、日本丸で世界一周してきました」
「すごいですね。船旅がいいですか」
「そらそうですよ。荷物を持たないのがいいですね。」
「・・・」
「80歳を超えて、腰が曲がり、いつまでも元気でおれないので、今のうちに乗っておこうと思っています」
「いつまでもお元気で」
ウーキングしながら交わした会話の一部である。
7時からストレッチ体操と第1、第2体操である。とにかく船上生活は運動不足になるので、体を動かすイベントには参加した。2回目の朝食。和食と洋食があるが、それぞれ好きなモノは取れる。
9時からロープワーク教室に参加した。ロープの結び方を教えてくれる。遭難の時、体にロープを巻きつけて引き上げるシーンを時々、見るが、あれは「もやい結び」といって、体を吊っても締め付けないのである。いくつか学んだが、すぐ忘れる。
9時〜11時、オープンバーでティータイム、好みのドリンクサービスを受けられる。ウエイトレスは全員、外国人。ウクライナなど旧ソ連からの美人の女性ばかりである。11時からオーバルボールに参加。なんのことはない、2mの距離からソフトボールぐらいの大きさのオーバル(楕円形)球を真ん中の四画の枠に4方向から順番に入れる。真ん中が5点、それより外枠の四画が3点、その周囲が1点となっており、チームを組んで枠内に載る球の数と点数を競うゲームである。まったく老人向きのゲームで、体が弱っている人でもできる。 恥ずかしながら一度もオーバル(楕円形)球を載せることができなかった。
午後2時から「世界自然遺産・知床の魅力と見所」の講演を聞いた。釧路で2泊1日のオプションに参加、その時、知床まで案内してくれるので、知っておく方がいいと考えた。ところが実際の講演(世界遺産研究所所長古田氏)は、世界遺産についての説明がほとんどで、話も面白くなく、知床は時間切れというお粗末なものだった。女房が船酔いでダウン、あわててトラベルミンを飲んだが、時すでに遅かった。
操舵室(ブリッジ)が開放されたので、見学した。「いまの状況は波がきついです」ということで、船酔いも仕方がないように思えた。後で聞くと、3mの波だった。
今日はこのクルーで唯一、インフォーマルコードといって、男性はネクタイをしないと、船長のウェルカムパーティから夕食、そして就寝までの間、どのイベントにも参加できない。フロントに、「ジャケットの下にカラーシャツではいけないのか」とたずねると、「No」であった。
船酔いから十分、回復していないが、夫婦でウェルカムパーティに参加した。まさかと、思いながらよく見ると、現役のころ、お世話になったプレスメーカーのT社長、現会長夫妻と会った。
「だれかと会うとは思っていました。顔は知っているんですが、名前を思い出せないのです(あとで分かったが、私のことである)」
「いや、驚きました。もちろん、T会長は特別室にお泊りでしょう」
「いいえ、6階です」
「では、私と同じじゃないですか。」
「はい」
社長時代から、堅実的であった印象だが、船旅でも同じ姿勢だと思った。今回、船旅は初めてで、奥様によれば「船の旅行は卒業旅行以来ですわ」ということで、社長時代もビジネスで海外へ出かけた以外は行っていないということだった。
「知り合いがいて安心です。部屋は629です」
乗船中、2回、会食をした。
夕食は一人で出かけた。ここでも正装でないと、入れない。席も案内通りに座らなければならなかった。私の座ったテーブルには88歳のお母さんを車椅子で連れてきている娘さん(といっても60歳代である)だった。
「(お母さんの)夫が疲れたといって、部屋で寝ています。それで母が心配しています」
「偉いですね。そうですか、神戸から来られたのですか」
二人の面倒はさすがにみられないという。レストランの外人スタッフ(大半がフィリッピン人の美男子)も時々、お母さんを励ましている。よく、この船に乗っているそうだ。
人間は山頭火のように旅をしたい願望をもっているのだろう。私の両親の場合、まったく旅をしなかったので、分からなかったが・・・。
● 9月2日(日)映画鑑賞
船は秋雨前線と低気圧の影響で揺れている。夜中も揺れたが、なんとか眠れた。朝5時起床。ウオーキングとストレッチ体操する。
朝食のあと、映画「博士の愛した数式」を見た。映画は毎日3回、上映されている。数学の面白さは分かっていたが、映画のような授業であれば、もっと興味が持てたと思う。それにしても久しぶりに涙を流す映画であった。
船は予定より1時間遅れで釧路港に接岸。港には救急車が出ていた。後で聞いた話では、体調を崩して帰路についた人もいたそうだ。昨晩の船の揺れは相当だったことが分かる。
釧路での見学はオプションごとに分かれてバスに乗り込んだ。タクシーを予約しておいて、それで巡る組もある。1泊2日の知床の旅に参加。天気は晴、夕日は見られなかったが、夕焼けはさすがに美しかった。知床の根っこのところ、ウトロ(宇登呂)のプリンスホテルに投宿。ホテルの6階の窓を開けて撮影。釧路から知床へバスで4時間もかかる。北海道の道路はほとんど信号がない。高速道路は必要がない。自動車の数も少ない。
6時30分、風呂に入ったが、泊まり客で一杯であった。
7時、夕食。毛がにが一杯出た。ジャガイモ焼酎「斜里岳」を飲んだ。あっさりした味だった。
朝、6時に周囲を散策。大きな岩の塊のオロロン?岩を見たかった。波に打たれた岩はアートのような固い塊で、ウミネコの棲家になっていた。近くのコンビニで北海道新聞を購入。久しぶりに新聞を見た。「遠藤農水相が辞任」がトップ記事であった。これからも政治家のカネ問題は噴出するだろ。
知床は熊が多いとバスガイドは言うが、最後まで見ることはなかった。野生の鹿と丹頂(鶴とはいわないそうだ)は車中から見られた。鹿は繁殖し過ぎているので、捕獲して鹿肉として処理、売っている。斜里岳の山並みが美しい。
● 9月3日(月)誕生祝い(曇り後、雨)
朝、8時バスで出発。車中から見える花、白い「反魂草(ハンコンソウ)」、黄色の「大イタドリの花」が美しい。海と白樺(シラカンバ、ダテカンバともいい、みんな同じ木である)が同じ場所で見える。これは知床の緯度が高いからである。オシンコシシンの滝に立ち寄った。冬は凍るそうだ。冬は流氷を見物する観光客が多いところである。
バスは知床5湖に向かった。うち1,2湖の周囲を歩いた。湖というより、池の大きさである。世界自然遺産に選ばれている知床は、一見に値するほどのこともない。木道が整備されているので歩きやすい。5湖の奥は熊が出没して危険だそうだ。
昼食は川湯温泉のホテル。量が多く、サケ尽くしであった。近くに硫黄の山から緑色の水が流れていた。
知床峠は雨と霧で視界がゼロ。カラフトマスが遡上する川を見た。川が黒くなるほどマスが群れながら川を上っていた。いまもスケトウタラの漁業と自然保護の両立が問題になっているそうだ。また、川の砂防ダムでサケの遡上が阻害されるので、ダムの撤去を命じられているという。
最後に釧路湿原でバスを降りたが、雨と霧でほとんど見えない。テーブルにつくと間もなく、音楽隊が「Happy Birth Day」の曲を演奏しながら乗客が見守る中、私のテーブルにローソク付のケーキが厳かに届けられた。みんなが拍手してお祝いをしてくれた。
このクルーで二人目の誕生日だそうだ(結局、3人いた)。船長まで席にお祝いの言葉をかけてくれた。知り合いの中堅企業のT会長もお酒を片手にテーブルに来てくれた。
私の名前を忘れてしまい、部屋に電話もできず、気にしていたという。こういうことがなければ、会わずじまいだったかも。誕生日のおかげと縁である。同じテーブルの人たちにケーキが配られた。77歳と70歳の女性であったが、お二人とも若々しい。その後、船内ではよく顔を合わし、その度にケーキのお礼を言われた。
【白神山地のブナ林を散策】
● 9月4日(火)白神山地(晴)
朝5時に起床。朝日はすでに昇っていた。体操をして朝食に出かけた。津軽海峡を通過、さらに南下。天気は良好、波も穏やかである。
午前中は白神山地のレクチャー。8000年の歴史をもつブナ林が特色。この自然保護運動をきっかけに、1992年、日本は世界自然遺産条約を批准、1993年登録したものである。一般には秋田側からは入山できない。山地は青森74%、秋田26%の比率でまたがっている。この点をネイチャーウオーキングでガイドに聞くと、両県とも許可制になっているということだった。ただ、コアーの部分はけもの道しかなく、ツキノワグマが出没するので、非常に危険だという。
釧路港でもそうだったが、能代港にヴィーナス号が寄航することは地元ニュースになる。釧路では40名の希望者を客船に招き、船内見学をしていた。能代では女性4人による和太鼓で歓迎された。当然、これだけの客船が寄港することは地元経済にも多少、寄与する計算が働いていると思われる。
オプションツアーはブナ林を散策するネイチャーウオーキング、男鹿半島観光、12湖(実際は23湖あるが、見えるのが12湖だと見学者から聞いた)観光の3コースで、一番人気は12湖観光であった。そこは世界遺産の指定場所で「青い池」(エメラルド色)に多くの人は魅かれたようだ。ネイチャーウオーキングは約1時間、白神山地に連なるブナ林を散策するものだった。ブナ林は大木もあって、すばらしかった。熊のつめ跡もところどころに散見された。熊はブナの実(非常に小粒)をかき集め(熊の手はそこからきているという)て、好んで食べるそうだ。
ブナは「撫」と書くように、ほとんど役に立たない木である。このため自然とブナ林が残った。白神山地の上にはいつも雲がたなびいていて、飛行機からはまず、見えないそうだ。
● 9月5日(水)金沢に寄港(晴)
4時半、起床。朝日は雲に隠れ撮れなかった。6時にアーリーモーニングのティーを飲。
6時30分、8階デッキの周囲約150mほどをウォーキング。7時からストレッチ体操、第1、第2体操を20分。その後、洗濯機に洗濯物を投げ入れて、朝食。
9時から映画「きみに読む物語」を観ている間、10時半に金沢に入港。この映画は以前に観ていたが、途中までそのことに気付かなかった。映画は認知症の物語である。ここ金沢で降りる人、逆に乗る人たちがいる。この場合、3泊4日の旅行となる。現役だとこの程度しか休みが取れないので仕方ないのだろう。降りる人に比べて乗る人の方が多いようだ。約100人が乗船。
午後からは夜の盆踊り大会に向けて教室が開かれた。私は写真の整理、パワーポイントの作成で時間を費やした。夕方、ミニジャズコンサートを聴く。狭い会場は立つほどにいっぱいである。この日から夕食は2回制となり、私は7時30分からの2回目の組である。
乗船して初めてT会長夫妻と同じテーブルで会食、決められた食事時間いっぱい話し込んだ。
「私のようなタイプ人間は船旅で時間を潰すのが苦痛です」と、話しておられた。確かに、かなりの社交性があるか、なにか趣味がないと船旅は退屈な時間の旅になる。
夜、9時からは盆踊りである。ゲームのあと、櫓の周りを輪になって、東京音頭、炭坑節、及び函館いか音頭を参加者の多くが踊り興じた。浴衣持参の人も多く、華やいだひと時であった。美人の外国人スタッフとツショットに収められたのが収穫であった。
(続きは、11日の日記に掲載)
●9月1日(土)日本一周の旅
帰宅後、航海日記を掲載します。
【知床の入り口、ウトロ(宇登路)の夕焼け=ホテルの部屋の窓から撮影】
●9月9日(日)「日本一周探訪の旅」感想
世界自然遺産て、何?
今回の船旅(釧路・知床、白神山地、屋久島)は結論的に言えば、船旅という一つの経験をした事実だけで、とくに感動したとか、充実したことはなかった。それぞれの場所を訪れる観光や写真撮影が目的なら船旅は時間制限があって、適さないが効率的に巡るには向いている。
今回、世界自然遺産の地、三箇所を訪れたが、それぞれの景観が必ずしもすばらしいということではない。それらの地が長年、保護され、あるいは神のいる場所(山の神を祀る)であったことから、立ち入れない場所であったり、熊など危険な動物が出没するなどの理由から、開発の手が伸びず自然と保護された地であることを感じる。
そこには原生林や数多くの固有の生物が生息している点が評価されている。そのことは学術的に意味があっても、観光に向いているかどうかは、別問題である。観光はあとから付随してきたものだから設備、アクセスは課題として抱えている。それでも人が集まるので、地元は歓迎(とくに観光業者)している。
今回の船旅の様子は、人生の最後、あがき(いや失礼、ごほうび)でジャンプしようと思っている人たちが集っているようにも見える。老人たちは(もちろん、私も含めて)膨大な空白の時間を埋める作業をしながら、どこで途絶えるかを知らないまま生きている。船内のイベントもその手伝いをしている。
定年後やリタイヤーしてボランティア活動、山登りに参加している老人たちも同じである。これが高齢化社会の現実である。50年前なら、ほとんどの人が世を去っていたが、70歳、80歳と寿命が伸び、空白の時間が長くなり、それに意味をもたせることが難しくなっている。好きなことをすれば良いというが、それには気力、経済力、ライフワーク的な仕事、そして健康という条件が備わっていないとできない。大半の凡人には所詮、難しい話なのだ。だから定年後の有意義な過ごし方の本が売れる所以でもある。
今回の船旅の平均年齢は70歳前後、子どもが一人も乗っていない(コースや期間によっては乗っているそうだ)。若者のカップルは見た限り、一組だけだ。かえって場違いのところに来たように見える。(途中、金沢からの乗船組には若いカップルも比較的、多かった。3泊4日なら現役でも可能だろう)
人は最後に旅願望をもつのだろうか。とにかく、参加者はおしなべて元気だ。船旅は飛行機と違って、衣類や靴をいくつも持ち込め(宅配便を使って)、楽しいというご婦人が多い。枯れ木に花の感がするが、気分はいいのだろう。とくに車イスの方や、人工透析の器具を引っ張りながら歩いている姿をみると、幸せだろうと思う。豪華客船はいわば海に浮かぶシティホテルといった感じのものだ。ただ、時々、揺れるので、船酔いになると、二度と乗船は嫌になるらしいが、しばらくすると、そのことを忘れてしまう。
この人たち(私も含めて)は、まったく生産的なことはしていない。ただ、時間も含めて浪費しているだけである。それでも資本主義社会では消費の面で多少、貢献しているのだろうが・・・。
@ 今回、乗船したビーナス号は飛鳥と日本丸の中間に位置するようだ。ピースボートは知っていても、今回の参加者には関心の埒外にあるようだ。ビーナス号は全体の中で中の上という印象だ。船旅に慣れた人が多い。車イスで来ている人も数人いた。
A 船旅は船で過ごす時間が長いので、気を長く持ち、忍耐力が求められる。ざっとした感じは、ゆとり組み(本当の富裕層は自分たちの船でクルージングしている)6割、残りが人生の「ごくろうさんの旅」組みである。6割のなかで品性を感じるのが半分ぐらい。4割の「ごくろうさんの旅」組みの中にも品性のいい人は多い。
以上がざっとした感想です。次回から航海日記を2回に分けて掲載します。